主催・お問い合わせ
◆祭当日(15日16日)のお問合せは◆
島原城 TEL(0957)62-4766
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長崎県島原市城内1-1183-1

◆主催◆
しまばら温泉不知火まつり振興会
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島原商工会議所内
TEL(0957)62-2101
 

カウンタ

COUNTER97371

しまばら温泉不知火まつり 歴史と趣旨

【歴史】


昭和42年、温泉給湯事業開始を記念し、それまで行われていた「商工まつり」と「島原おくんち」を一つにして、秋祭り「島原温泉まつり」が開催、キリシタン行列・仮装行列等で賑わいました。
昭和53年、郷土愛の醸成を目的に夏祭り「不知火まつり」を島原青年会議所が開催。
昭和55年、秋祭りの「島原温泉まつり」と夏祭りの「不知火まつり」を一つにし「第一回しまばら温泉不知火まつり」が開催され、それから現在に至るまで、島原半島最大級の秋祭りとして島原市民2千名が参加する市中パレードをメーンに、前夜祭や城内特設会場によるイベントなどを催してきました。
また、「島原城薪能」「しまばらガマダス阿波踊り大会」を特別協賛事業として開催していたが、平成23年より、それぞれを「しまばら温泉不知火まつり」の第一部、第二部、そして「歴史文化市中パレード」を第三部として開催しました。
そして、今年、平成28年度より「歴史文化市中パレード」から「不知火奉納舞台」に変り、秋の五穀豊穣、商工業の活性化、また、島原の歴史や文化、大地の恵みに感謝する気持ちを、島原城特設舞台にて披露し表現します。


【趣旨】


本まつりの趣旨は、江戸時代、松倉重政公がこのまちに島原城を築城し島原の城下町が誕生した時に始まり、城下町として繁栄するも、島原の乱や島原大変、平成の雲仙普賢岳噴火災害と、繁栄と壊滅そして復興を繰り返しながら現代に至るこの島原の歴史と、「文武両道こそ藩の基盤である」との精神より松平忠房公が残した「松平文庫」にも見られる、武士や町人、農民がともに楽しんだという能や狂言の文化。そして、豊かな自然と湧水に育まれながら、しかし時に襲う自然の脅威にも耐えながら生活をおくる私達島原の町人の、かつて有明海に見えたという神秘の不知火に向かい明日の平穏を祈るその想いを表現し、その歴史と文化と大地の恵みに感謝するまつりです。
 

島原の歴史(※2016年度よりパレードは中止となりました)

島原半島は古い歴史の地


〝島原半島は古い歴史を持つ地である〟
 大昔、御山・温泉山には高来津座がましまし、民は神として崇めて、ともにこの地に暮らしてきた。人は山々と野を駆けめぐり、裾野を切り開いてムラを築いた。こうして島原半島の歴史が始まった。以来、数万年、幾千年と我らのご先祖様は豊かな未来を目指して営々と暮らしてきたのである。

〝島原半島はたくましい地である〟
 長い歴史の中では多くの人々が犠牲となる大変な出来事あった。多くの困難な出来事にも出会った。それが島原の乱であり、島原大変である。島原の乱では住民が約三万人も虐殺された。島原半島の六割が亡所となってしまう。島原大変では、城下町がかき消え、村々が洗い流された。一万人が犠牲となる。これらの人災や天災にめげず助け合い励まし合って復興に努めた。町や村が前よりも発展していくのである。

〝島原半島はエネルギーに満ちた地である〟
 歴代藩主は文雅を愛でる士であったから、古今の名著が数多く残され、藩校をもとに学問が進み、能・狂言、歌舞伎が普及していく。同時に多くの人材が育っていった。明治になると、封建制のくびきから解放されて、各界へ進出した。海を渡り、ファーストジャパニーズとなった人物もいる。郷土に残り、地域の発展に尽力した人も多い。植木元太郎翁は自ら鉄道狂と称し、島原半島の鉄道敷設へ一生をかけた。文字通り機関車となって島原半島の経済、政治、文化などを牽引した。近くは北村西望先生、下村脩博士などと、多才な人を輩出している。

 

 さて、しまばら温泉不知火まつり「歴史文化市中パレード」の先頭を行くのは、とってもかわいい子ども隊の皆さん。一生懸命練習した鼓笛隊や踊り等を披露してくれます。

 そして、「島原先踊り保存会」の皆さんによります「先踊り」と続きます。この先踊りは、寛文9年(1669年)今から342年前、松平忠房公が京都福知山から島原に移封されてこられたとき、町民が歓迎の為に踊ったのが始まりと言われており、以来、島原城下の郷土芸能として伝えられ、昭和54年島原市文化財に指定をされています。

 島原先踊り

先踊りのあとには、「まつり振興会会長」「島原商業高校バトン部・ブラスバンド部」「ミス島原」と続きます。 

 

松倉重政と島原城築城


 松倉重政木像(島原城史料館蔵)

 松倉重政は、徳川家康の覇権獲得時の功績が認められ、慶長十三年(一六〇八)大和国宇智郡に一万石の領地を与えられて二見城に入り、五条新町(奈良県五條市)を開いた。その後、慶長二十年(一六一五)大坂夏の陣に際して、大和郡山城の救援や道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、元和二年(一六一六)有馬晴信の旧領であった肥前日野江四万三千石を与えられて移封した。元和四年(一六一八)一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城(別名:森岳城)の築城を開始する。数多くの人夫を動員して七年の歳月をかけ、自ら理想とする島原城を完成させた。

 ありし日の島原城(島原第一小学校蔵)

 歴史文化市中パレードでは、松倉重政率いる家臣たちの後に続き「島原土搗唄保存会」の皆さんが登場します。土搗唄の歌声と踊りで、町人みんなで島原城の築城をお祝いしています。

 松倉重政列

 島原土搗唄保存会

 島原土搗唄は、島原地方では「昔から新しい家を建てるとき」作業唄として、また、祝い唄として歌われてきました。島原土搗唄を踊りと共に、郷土芸能として保存継承するため、三会地区の有志により「平成6年・秋分の日保存会が結成」されました。パレードには「島原土搗唄」保存に理解ある「おさなご園・三会小5年生・三会中生徒と保護者」が参加して、ここに地域の三世代が交流、親しく・楽しい一日に致します。この意義深い「市中パレード」で、活動の一部を力強く、一生懸命演技します。

 

天草四郎と島原の乱


 天草四郎

 キリシタン教会が栄えた有馬地域や天草地方では、その領民の多くがキリスト教を信仰した。しかし、幕府が布告したキリスト教禁教令によって、有馬地域の領主である松倉氏や天草地方の領主の寺沢氏は、キリスト教を弾圧。信者の棄教を強要し、従わない者には残酷な拷問を加えるなどした。また、寛永十年(一六三三)頃から続く飢饉も加わり、寛永十四年(一六三七)十月二十五日「島原・天草一揆」は勃発した。一揆軍は天草四郎時貞を盟主とし原城に立て籠もり、徳川幕府と対立した。原城は廃城とはいえ、堀と石垣は充分に防御に役立つものであった。一揆軍の勢力は三万七千人。一揆に参加した農民がみな原城に入ったため、島原南部は人っ子一人いない廃村のようにったという。幕府軍は厳重な包囲陣を敷き、大砲や鉄砲を城内に打ち込み、包囲陣は次第に狭められ、遂に城内に突入した幕府軍によって一揆軍は全滅するという凄惨な結果となった。

 全国公募によって選ばれた天草四郎(平成23年度)

 歴史文化市中パレードでは、天草四郎を筆頭に、キリシタン宣教師や天正遣欧少年使節が登場します。天草四郎は「幼時より目から鼻に抜ける利発さの上に、眉目秀麗、一見少女と見紛うばかりの容姿で、年と共に紅顔花の如き美少年」と称されていました。このように、世界の歴史をも揺り動かした出来事である「島原の乱」の総大将を務め、絶世の美少年と呼ばれた「天草四郎」の役を、全国に公募したところ多数の応募があり、厳正な審査により、まさに現代の「天草四郎」を名乗るに相応しい美少年・美青年を発掘しました。まつり当日に選彰式も行います。ご期待下さい!

 キリシタン行列

天草四郎のあとには、参謀、侍大将、軍兵、娘子軍、天正遣欧少年使節(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)、宣教師のキリシタン行列が続きます。

 

松平忠房と文武両道


 松平忠房は、慶安二年(一六四九)丹波天田郡・何鹿郡などに一万五千石を加増されて四万五千石で丹波福知山藩に加増移封され、寛文九年(一六六九)二万三千石を加増されて七万石の上で肥前島原藩に加増移封された。松平忠房は「文武両道こそ藩の基盤である」と、自ら講書を開き、家臣にも聴講を勧め、それはやがて藩校へと発展する。またいろんな書物を集めて「尚舎源忠房文庫」を作り、それが今も伝わる「松平文庫」で、一万冊余を収蔵(島原図書館)している。この「松平文庫」には、その頃使われた「能」の台本である謡曲本がたくさん残されており、能は武士のたしなみとされていたものの、やがて町人や農民にも広まり、武士・町民皆で能や狂言を楽しんでいたという歴史には、松平忠房がいかに文雅を愛でる武将であったかが垣間見える。

 島原城薪能

 歴史文化パレードでは、島原三小育友会の「若さま、お姫さま行列」が登場、かわいい若様、姫様に、籠担ぎや鎧武者など、江戸時代を思わせるパレードをお楽しみ下さい。また本年は、武者行列として総勢200名の甲冑列が登場!その勇姿をお楽しみに。

 島原三小育友会「若様お姫様行列」

 この殿様行列は島原藩主が年に一度、島原半島内の領民の日々の暮らし、産業の現状を視察していた史実にもとづいた再現行列であります。島原第三小学校、第二中学校の児童・生徒たちの扮する若様お姫様、お供に城代家老の老人クラブ会長さんや大老、大目付、道中奉行の面々を従え、島原藩主に報告いたします。実に140年振りの悠久・歴史ロマンを秘めた「若様、お姫様行列がゆく」の一行であります。

 

「島原大変肥後迷惑」 島原の民話「竜女おすわ」


 島原大変図

 寛政四年(一七九二)島原城下町の裏にそびえている眉山が崩壊して町を埋め尽くし、大津波が発生した。その結果、島原で死人一万人、対岸の熊本でも五千人が亡くなり、あわせて一万五千人もの人が流死した。それでこの被害を「島原大変・肥後迷惑」という。

 島原に古く伝わる民話に、この島原大変を物語にしたお話しがあります。島原に住む若い医者が、子ども達にいじめられている白蛇を助けると、その晩、傷だらけの娘が尋ねてきて傷の手当をします。しばらしくしたころ医者が病気になると、その時の娘が現れて看病をしてくれ、二人は夫婦となります。元気な子どもも生まれ幸せに暮らしていましたが、ある時、この娘が白蛇であることがわかってしまい本当の姿を見られた白蛇は、子どもの為にと美しい玉を置いて去ります。しかしこの美しい玉を領主にとられてしまい、白蛇に頼むとまた美しい玉をもうらうのですが、これもまたとられてしまいます。実は美しい玉は白蛇の目の玉で、両目を失った白蛇は悲しみの果てに竜となり、そのに怒りに眉山を崩壊させたという伝説です。

 島原大変(坂上町の龍頭)

 歴史文化パレードでは、坂上町の精霊船で古くから代々伝わる「龍頭」をこの白蛇に見立てた山車が登場します。この山車を引くのは、地域の防災を司る島原市消防団第十二分団の皆さんと、坂上町内会の皆さん、そして民話の語り聞かせをされている童話の会くすのきの皆さんです。

 童話の会くすのきの皆さん

 

明治維新と島原の偉人

 明治維新の立役者といえば、言わずと知れた坂本龍馬。龍馬の長崎への第一歩は島原から始まった。龍馬は、剣術修行、脱藩、勝海舟との出会いなどをとおして、海外との目を開き日本の変革を考えるまでにたくましく成長をとげる。やがて龍馬は運命の糸に導かれるように長崎を目指すことになった。元冶元年(一八六四)神戸港を出港、瀬戸内海をわたり大分佐賀関に上陸、そこから豊後街道で九州を横断し、熊本から有明海をわたって島原上陸、島原街道、長崎街道をへて目的の長崎に到着した。

 勝海舟と坂本龍馬(島原龍馬会の皆さん)

 幕末に長崎の町を昼間なのに提灯をつけて歩いている人がいた。「世の中は暗い暗い。幕府の政治では明るくならない」とつぶやいていた。この人物こそ、勤皇の志士として活躍した丸山作楽である。文久三年(一八六三)に私塾・神習処を開いて、武士だけでなく町人や農民にも皇国の道を説いた。維新後は明治新政府の役人となり活躍、外務大丞となって、サハリンの国境問題についてロシアと交渉した。またヨーロッパに渡って憲法や皇室典範などの研究に努め、貴族院議員にも勅撰されるなど政界でも活躍した。

 明治四十四年(一九一一)島原半島をはじめて汽車が走った。最初は諫早―愛野間十二キロで、二年後には島原湊まで四十二キロが開通。鉄道の開通は、島原半島の住民に計り知れない恩恵と文明開化をもたらした。この五年ほど前、在京の旧藩士ら有志が島原に鉄道を開業させようと、島原鉄道敷設趣意書を発表し、明治四十一年島原鉄道株式会社が設立、植木元太郎を先頭に四年かけて開通させた。植木元太郎はその後、昭和十五年(一九四〇)南高来郡島原町、安中村、杉谷村の三町村の合併により発足した島原市の初代市長に選ばれた。

 丸山作楽・植木元太朗

 歴史文化パレードでは、坂本龍馬、勝海舟が登場。また、丸山作楽、植木元太郎と共に、島原鉄道株式会社の皆さんによる機関車の山車が登場します。

 島鉄グループの皆さん

 

平成普賢岳噴火災害と島原半島世界ジオパーク


 雲仙普賢岳噴火災害

 平成二年(一九九〇)十一月十七日に普賢岳が一九八年ぶりに噴火を始め、翌平成三年六月三日、大火砕流が発生し、報道関係者二十人、消防団十二人、その他あわせて四十三人が死亡した。平成八年には噴火活動の終息が宣言されたが、その間に火砕流が約九四〇〇回、土石流が三二回発生した。その被害総額は、二三〇〇億円にも達した。島原市の農地の二二パーセントが被災地となり、農業所得は四三パーセントに低下。大量の土石が流入して漁場が荒廃したため、水産業も大打撃を受け、十年間で経営体数が二四パーセントも減少した。また、観光客も大幅に減少し、島原市の経済は大きく落ち込んだ。そこで復興策が急がれ、一〇〇〇億円の災害対策基金をもとに「がまだす計画(島原地域再生行動計画)」を立て、平成九年からその復興再生の活動が始まった。

 平成四年、雲仙普賢岳噴火災害が発生した島原に対し、徳島県阿南市の青年達から、島原の子ども達を阿南に招待し一時の間だけでも降灰から逃れさせ、又、両地域の子ども達が交流し、お互いの地域の特質や文化を知ることで、次代を担う子ども達の成長の一助になればとの提案で「阿南・島原げんき塾」が開催され、これが阿波踊りに出会うキッカケとなった。それ以来21年間、阿南ささゆり連の皆様には毎年不知火まつりに参加していただいています。

 阿波踊り

 平成二十一年島原半島ジオパークが国内第一号で世界ジオパークネットワークへの加盟を認められ、世界ジオパークネットワークに関する世界大会である「第五回ジオパーク国際ユネスコ会議」が平成二十四年に島原半島で開催されることが決定し、本年五月盛大に開催された。このユネスコ会議は、島原半島にとって平成十九年の火山都市国際会議島原大会に続く国際的なビッグイベントとなる。

 ジーオ君

 歴史文化パレードでは、島原半島ジオパークのキャラクター「ジーオ君」がPRを行います。

 この歴史文化パレードの全てを通して、江戸時代、松倉重政公がこのまちに島原城を築城した時から始まり城下町として繁栄する度に、島原の乱や島原大変、平成の雲仙普賢岳噴火災害と、繁栄と壊滅そして復興を繰り返しながら現代に至るこの島原の歴史と、かつて有明海に見えたという神秘の不知火に向かい明日の平穏を祈った島原の町人の想いを表現し、その歴史と文化と大地の恵みに感謝します。